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学研映画の歴史

学研映画とは|学研映画年表

【学研映画とは・・・】

“音と光と文字に挑む学研”──そんなキャッチフレーズのもと、教材映画を制作するため、学研に「映画部」が設立されたのは、1955年のことです。以来、理科や社会科など学校現場で使われる教材映画や児童向け人形アニメーションなどを独自の手法で次々に映画化。東映や岩波映画、共立映画などと並び、教育のための“実用映画”として広く認められるようになります。

教材映画の成り立ち 〜スライドから映画へ〜

学習研究社(「学研」)は1946年、小学生向け学習雑誌「学習」の創刊とともに、教育系出版社として誕生しました。当時の社長・古岡秀人は創業まもなく、紙媒体のみにこだわることなく、他のメディアにも視野を広げ、先駆的な教材を創りだすべく模索します。

1950年には視聴覚教育の重要性と発展性に着目し、「教材部」を設けてスライド教材の製作・販売をスタートしました。その後教材映画の製作に着手するため、1955年、「教材部」から独立する形で「映画局」が発足します。その第1作目として制作した作品が「カニの誕生」。以降、学研は教材映画の普及・発展に力を注ぐようになります。

カニの誕生
カニの誕生

映画局の初代局長となった古岡勝氏、映画部長の原正次氏、そして撮影(カメラマン)の清水ひろし氏、高綱則夫氏、演出の石川茂樹氏などが映画部初期メンバーとして結集。学研映画の特徴的なところは、映画部草創期のスタッフほとんどが、学術面で領域ごとの高い専門知識を持っていたことでした。例えば石川氏は蝶々、岡田泰明氏は鳥類といった具合──。

カブトムシの研究
カブトムシの研究

映画局誕生の数年後には、その後の学研映画を支えた人々が続々と入局します。人形アニメーションから教材映画まで多くの作品を演出した小野豪氏、学研映画のネームバリュ―を高めたアニメーション作品のプロデューサー神保まつえ氏、日本のアートアニメ界を代表する名監督として世界的に評価の高い渡辺和彦氏、理科映画からPR映画まで幅広いジャンルで演出を手がけ、現在も科学映画の重鎮として活躍する定村武士氏、社会科系映画の演出で腕をふるった森田純氏、等々。そうそうたる顔ぶれが揃い、学研映画黄金期の幕開けを迎えることになったのです。

<1960年代>

学研の人形アニメーション

1960年当時、日本国民の娯楽の中心は映画でした。全国にある映画館のスクリーン総数は7000弱で現在の倍以上あり、観客動員数は年間で10億人を超えていたほど。映画が教育現場に波及していくのは自然な流れでした。そんななか、教材映画を自主制作するようになったのは日本全国で数社。東映、岩波、共立、そして学研です。

スライド教材に並び、8ミリフィルムや16ミリフィルムを教育現場に送り出すようになった学研が、特に高い評価を得たのが人形アニメと理科映画でした。

ここで日本のアニメ史を少しだけひも解いてみましょう。遡ること第二次世界大戦前から、日本のアニメの先駆者と称される大藤信郎氏、そして政岡憲三氏や瀬尾光世氏などがセルや影絵、切り紙などの手法により、多数の傑作を世に送り出していました。

人形をコマ撮りする手法を用いるのが人形アニメで、このジャンルでは、1956年、持永只仁氏が制作した「瓜子姫とあまのじゃく」が日本での本格的な人形アニメ作品の第一作と言われています。学研も1958年、人形アニメ草創期に宮沢賢治原作の人形アニメ「注文の多い料理店」を制作し、注目を集めました。

「注文の多い料理店」や「ポロンギター」を演出した小野豪氏、後に日本のアートアニメ界に名を残す渡辺和彦氏ら学研の制作スタッフは、アニメーションの制作に夢と情熱を持っている者ばかりでした。でも実は多くがアニメどころか、映画制作さえ初心者で、技術的な研鑽を積みながら、一歩一歩努力して学研アニメーションというブランドを確立していったのです。

ポロンギター
ポロンギター
注文の多い料理店
注文の多い料理店

60年代に制作された「マッチ売りの少女」や「みにくいアヒルの子」は数々の賞を受賞。そのことは、プロデューサーの神保まつえ氏や演出の渡辺和彦氏の作家性・アート性はもちろんのこと、照明、セットデザイン、彩色、カメラワーク、人形動作など、映画の技術に対しても高い評価を得た証でした。

学研の科学映画

学研における科学映画は、学研が映画スタジオを設けたことに端を発します。映画スタジオの中には、アニメーション撮影用の動画台スタジオとともに、理科実験のできるスタジオがありました。生態室と呼ばれたその撮影場所には顕微鏡や飼育器などが完備。さまざまな実験を行って撮影をすることができました。その後、スタジオだけにとどまらず、水中撮影や航空撮影、顕微鏡撮影などを交えて制作した作品も誕生。その特撮技術は高く評価され、その後長らく科学映画は学研映画の屋台骨となっていくのです。

<1970年代>

教材映画のあゆみと産業映画への参入

黄金期の学研映画を支えたのは、人、場所、そして潤沢な時間でした。学研映画局専用の撮影スタジオでは、人形アニメや理科の実験映像などに、月単位、年単位で惜しみなく時間を注ぎ込まれて撮影が行われました。撮影部、演出部の役割分担も明確になって、スタッフそれぞれがプライドをかけ、より魅力ある作品創りに情熱をかけていました。

じしゃく
じしゃく

1976年には美智子妃殿下、礼宮殿下、紀宮殿下が、人形アニメ「ベルとかいじゅう王子」の撮影現場ご視察のためご来社。スタジオは常に活気に満ちていました。

ベルとかいじゅう王子
ベルとかいじゅう王子

制作技術と作品のクオリティはますます高まり、教育映像祭文部大臣賞の連続受賞や、芸術祭賞など輝かしい受賞歴を更新。自主制作に加え、官公庁や企業からの受託制作にも力を入れ始めました。「黒い霧」では公害・環境問題を取り上げ、「尾瀬」「北海道の自然」では、美しい自然を描き、産業映画という確固たるジャンルを築いていったのです。

黒い霧
黒い霧

さらに1970年の大阪万博や1975年の沖縄海洋博の開催時、学研が制作した大型展示映像は学研映画において、新しいジャンルへの挑戦だったといえるでしょう。映画局内に万博映画製作室を設置し、教育映像制作で培ったノウハウをもとに、大規模なロケ、空撮、水中撮影、アニメーションなど特殊技術を駆使して万博映像を制作。ここで制作された全天全周(360度)に映し出されるアストロラマ映像は、万博らしい大規模映像として世界的に高い評価を受けました。これを機に、学研は超大型映像やマルチ映像、立体映像など、展示用映像の制作も多数受託することになります。

<1980年代>

テレビから映画そして電子映像へ
時代の変遷とともに新メディアに挑戦

学研映画局は、理科や社会科の科目を中心にした教材映画で文部大臣賞を連続受賞するなど、全盛期を迎えます。その一方で新たな映像媒体の模索を止めることはありませんでした。1980年代に入り、新たに取り組んだのがテレビと劇映画、そしてさまざまな電子映像です。

理科映画の特撮技術にはかねてから定評があった学研は、NHKの科学番組で挿入映像を提供してきました。その実績が評価され、NHK子ども向けアニメ番組の受託制作が決定。1980年にNHK総合テレビで「ニルスのふしぎな旅」がスタートします。この番組は平均視聴率15%という高い数字を獲得しました。

その後、アニメ映像事業室が中心になり多くのテレビアニメを制作。1981年、テレビ東京の「まいっちんぐマチコ先生」、1983年にNHKの「スプーンおばさん」、1984年はフジテレビの「チックンタックン」などが放送されて、お茶の間の子どもたちの心を虜にしたのでした。

これらの番組のプロデューサーは、当時学研のアニメ事業室長でもあった神保まつえ氏です。1960年代から人形アニメやテレビアニメを数々プロデュースし、学研アニメーションの発展の歴史を語る上で欠かすことのできない存在となっています。

さらに学研は、劇映画にも挑戦。「南極物語」「次郎物語」「大霊界」「クライシス2050」など、次々に話題作を世に送り出します。なかでも1983年に公開された「南極物語」は1997年公開の「もののけ姫」に抜かれるまで、日本国内の興行収入でトップを記録する大ヒットとなりました。

一方、コマーシャルの分野では、1960年代、学研の関連会社である東京秀映(後の学研クリエイティブ)を設立。それを機にSONYの「動物の親子」シリーズなど、学研の特撮技術を生かしたテレビコマーシャルの制作に取り組みます。

1985年になり、CG映像の開発を目的に、社長室直轄部門としてGCGC(学研コンピュータグラフィックス映像センター)を開設。CGを活用して日本石油のコマーシャルなども手がけるようになります。ただ残念ながら学研クリエイティブとGCGCは1990年代に幕を下ろし、学研は一時、電子映像分野から手を引くことになりました。

時代の変遷ともに、学研は16mm映画からVHS、そしてDVDと新しいメディアにチャレンジしつつ、教育的価値の高い作品を世に送りだすことを使命として映像制作に取り組んでいます。

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